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日本の血友病者たち

日本の血友病者および患者会のこれまでの歴史を、ごく簡単にまとめておきます。話はだいたい1960年代から現在に渡ります。年代順に区切って記載します。

治療前史

わが国の血友病者に関する最初の報告は,明治22年頃だそうです。全国的な調査は1963年が初めてで、全国に血友病AとBで892名の患者がいることが報告されました。また、これ以前に第二次世界大戦以前に就職して働いていた血友病者、戦中末期に徴兵されてシベリア抑留に遭った血友病者といった記録などがあります。こうした時代では輸血も受けられず、治療らしい治療もなかったでしょう。血友病の治療で、血漿分画製剤が使われ出したのは、1960年代後半からで、それ以前は輸血でした。肉親や特定の供血者の方から血をもらったりしていたのです。

1960年代

1965年、ジュデイス・プールらによって、大量の第VIII因子を含むクリオプレシピテートがアメリカで発見されました。1967年には、AHGという製剤(コーン分画製剤)の製造・販売が日本で開始されます。保存可能なこの製剤は、血友病者を出血の激痛から解放する契機になりました。

治療製剤の登場は、各地で患者会の結成を促しました。1966年、奈良の橿(いつかし)会、東京の博友会、新潟の旭友会、北海道の道友会、1967年、名古屋の鶴友会が発足します。この五つが日本最初期の血友病患者会です。これらを中心に1967年に血友病者とその家族の全国組織である「全国ヘモフィリア友の会」(全国会)が創立されました。

凝固因子製剤は優れた効能を持つと同時に、非常に高価で、血友病児の親たちにとって大きな負担でした。当時の製剤の値段は7,070円。1970年の大卒初任給が40,961円です。血友病医療の根本を支える製剤が高額であることは、今も昔も変わりません。全国会創立の最大の目的は、血液製剤が非常に高価で供給も少ないので、血友病者が集まることで血液製剤の必要性を訴え、その大量生産、安価提供を可能にすることでした。

1969年4月から先天性代謝異常4疾患と血友病に対して医療給付が開始されます。公費負担の第一歩は踏み出されましたが、当時の医療給付は6歳未満、年1回という厳しい条件つきでした。この制限の壁を取り除くため、全国会が国政レベルで、各地域の患者会が地方自治体レベルでの陳情を繰り返しました。

1970年代

1971年、川崎市が全国に先駆けて血友病医療給付の年齢制限撤廃を行います。一方、国政レベルでは、全国会の代表が、自分たちの行った第1回全国血友病実態調査の結果をもとに、1972年度予算での医療給付の拡大を懇請しました。その結果、12歳未満までの年齢制限緩和を勝ち取り、1972年度から全国規模で実施されました。

1974年に小児慢性特定疾患治療研究事業が開始されます。疾病ごとに行われてきた医療費公費負担が、これで統合され、血友病医療費の公費負担の基礎的根拠として現在に至ります。

ここで、新たな問題として地域格差が生じました。小児慢性特定疾患治療研究事業は、基本的に対象年齢が「18歳未満の児童」なので、20歳未満まで延長しても、それ以上の医療給付がありません。20歳以降は、都道府県や政令市の裁量に任されました。早いところでは、1970年代前半に年齢制限を撤廃した自治体もあれば、1980年代後半になっても年齢制限が残っていた自治体もありました。

72年には第IX因子複合体製剤が承認され、これで血友病Bも製剤による治療ができることになりました。AHGは製造が中止され、AHFとなります。現在の治療製剤の原形となる濃縮製剤が出るのは1979年です。濃縮製剤の単位量は大きく、効き目も劇的で、しかも製剤の液量が少ないですから、急速に広まっていきます。

日本ではこの当時、濃縮製剤の原料血漿あるいは製剤そのものを輸入に頼っていました。そして、80年代になると、HIVに汚染された血漿や製剤が輸入され、大変なことになります。

さて、全国会や地域患者会は「家族の会」という色合いが強かったのですが、1970年代になると、血友病者本人たちによる、独自の活動も展開されます。YHC(Young Hemophiliac Club)や東京ヘモフィリア友の会の青年層などです。これらの担い手は若い血友病者でした。治療法がある程度進み、社会進出が現実のものとなる一方で、進学・就職・結婚などの諸問題に直面した彼らが、自由な意見交換をする場を自らで作り出していきました。また、この時期、血友病への差別的な事件がいくつか起こっていますが、これらへの抗議活動も展開されました。血友病者が「守られる存在」から積極的に社会参加する・できる主体に変貌していったのは、70年代の大きな特色です。

1976年、世界血友病学会議が日本で開催されました。このころ日本に紹介されたのが“ホーム・インフュージョン”つまり家庭輸注あるいは自己注射です。特に、若い血友病者たちは親からの自立、社会参加を目指して“ホーム・インフュージョン”の普及を強く望みました。

1980年代

1980年に入る時期、このころ血友病者本人やその家族、医療関係者は「血友病の未来は明るい」と思っていました。1983年には、自己注射が保険適用になりました。1984年、「長期高額疾病患者の負担軽減」措置に伴い、20歳以上の血友病医療費の自己負担が上限1万円となりました。年齢制限と地域格差のない公費負担が、とうとう実現したのです。

一方、同じころに、AIDSの情報が日本の血友病者たちにも届き始めました。1980年代前半、血友病者とその関係者たちは、その安全性に対する不安を抱きながらも、凝固因子製剤を使っていました。特に、生命に関わる出血などが起こった場合は、当面の生命の危険を重視し、製剤を使わざるを得ませんでした。血友病者とその関係者たちは、凝固因子製剤の確立された効能とHIV感染の不確定なリスクとの狭間で、製剤を使用すべきか否かの判断を迫られていきます。

1986年から1987年のエイズパニックから、全国の臨床現場で診療拒否が起こる一方で、HIV/AIDSの治療に取り組む医療機関は限られていました。全国会は、創立時の目標である医療費公費負担は達成したものの、HIV/AIDSという未知の問題に対し、新たな取り組みが求められたのにかかわらず、その取り組みはうやむやでした。1986年3月、全国会にエイズ対策委員会が設置され、患者会への情報提供が開始されましたが、全国会そのものは、HIV感染の顕在化とエイズパニックに伴う混乱を収拾することができずに活動を停止し、全国組織が事実上存在しない状態となりました。偏見と差別が血友病者に注がれ、もはや血友病と口にできない雰囲気が世間を包みました。

国会ではエイズ予防法案が審議されていました。血友病者や医師など関係者は、国会で法案に強い懸念を表明しました。予防法成立直前の1988年、法案との引き換えであるかのごとく、衆議院社会労働委員会で「血液製剤によるエイズウイルス感染者の早期救済に関する件」が可決され、自己負担の1万円が公費負担となりました。このようにして、現在の血友病医療費の完全公費負担が実現したのです。そして翌89年、エイズ予防法は成立しました。

これはまことに皮肉な話ですが、血友病者を解放すると思われた濃縮製剤、自己注射、医療費の公費負担、これらによって製剤の使用が大きく普及し、その結果、HIV感染がかえって拡大した一面は否定できません。医療費の完全公費負担が、ほかでもないエイズウイルスによって達成されたのも、また事実です。

85年に加熱第VIII因子製剤が、86年に加熱第IX因子製剤が発売されますが、当時の血友病者の約4割がHIVに感染するという大惨事になりました。HIVに感染した血友病者たちは、1989年5月に大阪で、同年10月に東京で国家賠償訴訟を起こしました。「薬害エイズ訴訟」です。

両原告団が提訴した当時、HIV感染症の画期的な治療法も確立しておらず、訴訟やそれを支援する運動は、文字通り手探りでした。血友病者たちの運動は、自らの生命に直接関わって、否応なく立ち向かわざるを得なかった運動といえます。

1990年代

1990年代はHIV感染をめぐる闘いで始まります。訴訟の原告となる者、訴訟を支援する者、患者会活動から手を引く者、それでも患者会活動を続ける者。HIV感染は、血友病者の生命を激烈に奪い、あるいは身体的、精神的苦痛を与えただけでなく、血友病者同士の関係や血友病コミュニティをも破壊した出来事でした。

その一方で、1992年、とうとう日赤が国内の献血による第VIII因子製剤クロスエイトMを発売します。他方、外資系メーカーは、人由来の感染症が理論上起こりえないとされる、遺伝子組換え第VIII因子製剤を93年に発売しました。

1996年3月29日、薬害エイズ訴訟は和解が成立しました。この年は現在のHIV治療の基礎となる多剤併用療法が確立した「奇跡の年」とも呼ばれています。1997年、エイズ治療・研究開発センター(ACC)が国立国際医療センター内に設置され、全国に各ブロックエイズ治療拠点病院が整備されました。

HIV感染の悲劇の後でも、新しい血友病者は生まれてきます。そうした新しい世代のためにもと、少しずつですが、地域患者会の活動が戻ってきたのもこのころです。

2000年代以降

2002年、生物由来製品の取り扱いを全面的に改めた「安全な血液製剤の安定供給の確保等に関する法律」、通称血液新法が成立しました。この法律の成立には、元HIV原告団のメンバーが尽力しました。

2004年11月、小児慢性特定疾患治療研究事業の法制化と引き換えに、自己負担が導入されるという情報が、大阪友の会に入りました。大阪友の会は各地域の患者会に連絡を取り、緊急要望書作成への協力を要請しました。1週間程度で緊急要望書が作られ、厚生労働省での協議が行われた結果、血友病への自己負担導入は回避されました。しかし、この対象除外は条文ではなく母子保健課長通知で行われたため、非常に不安定な措置になっています。公費負担の先行きをはじめとする環境の不安定さに対処するためには、全国的な血友病者の連携が必要なことを痛感させられたできごとでした。東西のHIV原告団は、和解後に国との強力なパイプを確保し、活動も活発であったため、全国組織が事実上存在しない血友病患者会には「何かあったら原告団」という意識があったことは否めません。

2005年、「血友病とともに生きる人のための委員会(JCPH)」が有志により設立されます。JCPHは、連絡が途絶えていた世界血友病連盟(WFH)の日本における加盟団体となり、日本の血友病者の国際的な窓口となりました。

一方、2004年から日本血栓止血学会血友病部会による「患者様と医療者との血友病診療連携についての懇談会」が始まり、地域の血友病患者会の代表が集まって、意見交換の機会を持つようになりました。この過程で、2007年、地域患者会の連携が懇談会で呼びかけられ、メーリングリストが開設されました。

2008年初めに血友病や輸血その他によるHCV感染者を取り残したままで、薬害肝炎訴訟の和解のために成立した法律が、いわゆる「C型肝炎特措法」です。この審議に対し、MLで連携した地域患者会をはじめとして、JCPHも加わった血友病関連団体が意見書を提出しました。そして、この時の成果を元に2008年3月、地域患者会の全国的な連絡体「ヘモフィリア友の会全国ネットワーク」が設立されました。

2010年4月、有志による実行委員会が、東京で「全国ヘモフィリアフォーラム」を開催しました。全国会の活動が盛んだったころは全国大会が毎年開催されていたようですが、それもなくなって久しく、患者主催のものとしては、実に約30年ぶりとなるイベントとなりました。2日間でそれぞれおよそ200人が集まる盛況となり、その後も2011年に大阪で、2013年に東京で同フォーラムが開催されています。2013年は主催がヘモフィリア友の会全国ネットワークに移り、今後も継続的な開催が計画されています。

さて、現在の日本の血友病治療は安全な治療製剤が無料で手軽に使えるという、以前に比べれば、大変恵まれた環境にあります。治療費軽減のために陳情を繰り返したり、感染症で多大な被害を受けることもなくなっています。

しかし、血友病をめぐる環境が今後どのようになっていくかは、社会状況も考えれば、非常に不透明なところがあります。今後も私たちがよりよい環境で生活できるよう、不断に考え活動することがやはり必要でしょう。